オタク分類学〜中森明夫の最終定理〜

皆さんはオタク分類学をご存知だろうか。

一口にオタクと言ってもアニメオタク、アイドルオタク、鉄道オタク、PCオタク等と様々なジャンルがあり、その中にも例えばアニメオタクの場合は1つのアニメ作品を取ってもその中にアニメそのもの(原作)のオタク、キャラクター(またはそれらのカップリング)のオタク、声優のオタク、アニメ制作会社のオタク、とさらに細分化されていく。

このようにオタクと呼ばれる生物を様々なジャンルに分けて定義していこうという学問がオタク分類学である。ちなみに実際にはそのような学問は、存在しない。

そのオタク分類学において未だに解明されていない、言わばフェルマーの最終定理のようなブラックボックス的な分類がある。

それが「オタク」と「ヲタク」である。

この2つの単語の違いを説明できる人間はおそらく誰一人として存在しない。これらの違いを明確に定義化する事はおそらく今回不可能であろう。フェルマーの最終定理は証明に300年以上もの年月を要したわけで、これも同様に一朝一夕でできるような代物ではないのだ。

今回はある程度の線引きをできるよう今回は考察していこうと思う。読者諸君の理解の一助となれば幸いである。本文では「オタク」と「ヲタク」をまとめた物をオタクと呼んでいく。

 

まず「オタク」と「ヲタク」、それぞれの言葉の起源についてだが、「オタク」という言葉が生まれたのは80年代後半、コラムニストの中森明夫氏が漫画雑誌『漫画ブリッコ』の中で「『おたく』の研究」というコラムで取り上げたのが起源とされている。

マンガファンとかコミケに限らずいるよね、

アニメ映画の公開前日に並んで待つ奴、

ブルートレインを御自慢のカメラに収めようと線路で轢き殺されそうになる奴、

本棚にビシーッとSFマガジンのバックナンバーと早川の金背銀背のSFシリーズが並んでる奴とか、

マイコンショップでたむろってる牛乳ビン底メガネの理系少年、

アイドルタレントのサイン会に朝早くから行って場所を確保してる奴、

有名進学塾に通ってて勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん、

オーディオにかけちゃちょっとうるさいお兄さんとかね。

それでこういった人達を、まあ普通、マニアだとか熱狂的ファンだとか、

せーぜーネクラ族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。

なにかこういった人々を、あるいはこういった現象総体を統合する適確な呼び名がいまだ確立してないのではないかなんて思うのだけれど、

それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ。

 

『おたく』の研究① 街には『おたく』がいっぱい 中森明夫 より

実際には「オタク」という言葉自体はそれ以前から存在していたそうだが一般的に知られるようになったのはこれがきっかけらしい。ちなみにこの中森明夫という名前は伝説的アイドル歌手の中森明菜から来ているそうだ。筆者が推しメンである甲斐心愛ちゃんの名前をもじって甲斐心憎(かいしんぞう)と名乗っているようなものである。気色悪い事この上ない。

そもそもこのコラム、「オタク」と呼ばれる人種を揶揄するために「オタク」と名付けたものの筆者の中森明夫氏もしっかりオタクなのである。自分を棚に上げて同族を嫌悪する、ミイラ取りがミイラになるのではなくミイラがミイラ取りになってしまうようなこの現象は元号が令和となった今なお続くオタクの悪しき悲しき性である。

少しばかり話が逸れてしまったがこのコラムを見るに「オタク」という言葉が生まれてから約40年、もっと言うと1970年代初頭にオタク文化が生まれてからの約50年間大衆的なオタク像はあまり変化していない。それもそのはず、オタクはゴキブリなのだから。シロアリがアリのような姿形をしているが実際はゴキブリの仲間であるようにオタクも人間のような姿形をしているが実際はゴキブリの仲間なのだ。

 

次に「ヲタク」という言葉の起源について。

こちらは「オタク」が生まれてから約20年後の2000年代前後に生まれたとされているが出自はハッキリとしていない。

最も有力な説だと世間においてオタクにマイナスイメージを持つ人が多かったため俺たちはオタクじゃない、もっとディープな種族なのだと差別化を図るために「ヲタク」という言葉を使い始めた、と言われている。

なぜオタクにマイナスイメージが持たれていたかというとこれを言うと身も蓋もない話でオタクは元来から気持ち悪いものだが、そのイメージをさらに最悪なものとする事件が発生する。

1988年から翌1989年にかけて発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件である。当事件の犯人である宮崎勤の逮捕後に行われた家宅捜索で約 6000 本のビデオテープの存在が明らかにされその光景が報道番組等で取り上げられ、さらに自らアニメ同人誌を発行したりコミックマーケットに漫画を出品していた事も明らかになり、現実と空想・妄想と犯罪行為の境界が曖昧で明確な規範意識の欠落が犯罪に及んだとされ、この事が原因で平成の始まりから世間の「オタク」のイメージは単なる根暗から犯罪者予備軍へと成り下がった。

この出来事が「ヲタク」の誕生に深く関わっていると考えられる。

またこの事件とは別にオタク人口が増えた事により前述した同族嫌悪するオタクも増え彼らが自らをオタクと一緒くたにされたくないという理由で「ヲタク」を名乗り始めたという側面もある。

筆者(アイドルオタク)は「ヲタク」派閥なのだが(今回本文上では中森明夫氏に敬意を払いどちらでも差し支えない場合「オタク」表記にしている)筆者自身もライトな「オタク」との差別化のために使っている節があり、これもおそらく同様に同族嫌悪の性から来た感情がそうさせているわけで、この説はかなり信憑性が高いと思われる。

 

「オタク」と「ヲタク」の起源を知ったところでここで一度アメリカにおけるオタク分類学を見てみよう。

アメリカではオタクは大きく分けてNerd(以下ナード)とGeek(以下ギーク)の2つに分類される。

まずナードについて、こちらは特定の分野に熱中している者に対して使われるスラングであるが「内向的」「恋愛に奥手である」「スポーツに興味を持たない」等の意味合いも孕んでおり、所謂カースト最底辺の者達を表す蔑称である。

日本ではあまり馴染みのない単語だがマンガ『僕のヒーローアカデミア』ではストーリー開始当初は何の能力も持っていない(そのためヒーローになる事は不可能)にも関わらずヒーローについて分析しノートにまとめるヒーローオタクの主人公・緑谷出久が「クソナード」と呼ばれる場面がある。彼をイメージしてもらうと分かりやすいかもしれない。

対してギークも主に一つの分野に熱中する者に対して使われるが彼らの場合はそれらについて深い知識や卓越した技術を持ちその能力で手に職をつけたり社会に貢献している者を指している。

プログラマーや車のエンジニア等が代表例である。

日本だと定義に当てはめるとアーティストやプロゲーマー、YouTuber等まさに好きな事で生きているオタク達をギークと言えるだろうか。蔑称として使われるナードとは対照的に半ば褒め言葉のように使われている。

 

ざっくり言うとナードは「役に立たない事に熱中するオタク」、ギークは「好きな事で生きていくオタク」である。

かと言ってナードとギークは二律背反の関係にあるわけではない。

ナードが「役に立たない事に熱中する」オタクである以上もしその分野についての知識や技術を用いて持続的に利益を生み出す事ができればその時点で彼はギークとなりうる。

前述の『僕のヒーローアカデミア』では無能力でナードだった主人公緑谷出久はストーリーの過程で能力を手にしてその能力と今まで分析してきたヒーローのデータ等を用いて組み上げた戦略で戦うヒーローになっていく。つまりギークになったわけだ。

こういう例は現実でもあるわけでただのゲーマーが実力を付けて大会で成果を重ねていくうちにスポンサーが付くなどしてプロゲーマーになったり底辺YouTuberがある動画がきっかけで人気になり広告収入を得るようになったりとナードからギークになるパターンは存在する。

オタクの名付け親である中森明夫氏もかつてアイドルオタクだったのが今やアイドル評論家として活動しており、彼もその内の一人である。

しかし彼らがギークになったからといってナードだった頃から精神性が大幅に変わっていくわけではない。ナードには精神的に未熟であるという意味合いも含んでおり、ギークでありながらナードでもある例も存在するのである。

 

舞台は日本に戻るが先程のアメリカにおけるオタク分類学と照らし合わせて「オタク」が「ナード」に、「ヲタク」が「ギーク」にそれぞれ対応するかというとそういうわけではない。日本におけるオタクはほぼ全てナードに包含されると考えていいだろう。もちろんオタクの中にもギークはいる。例えば米津玄師は間違いなくオタクだがオタクとしての側面以上にアーティストとしての側面の方が強い。米津玄師を前にして「お、オタクじゃん」と言う人間はおそらくこの世に存在しない。林修がテレビに映っている時に「お、塾講師じゃん」と言う人間が存在しないように。

このようにオタクである以上にその専門知識や能力を活かしている者達、つまりオタクであるがその事よりもオタクと紐付けられた他のアイデンティティーの方が勝る者達はギークなのである。そう考えると「ギークでないオタク」を「ヲタク」と定義してもいいのかもしれない。

しかしその場合だと不都合が生じてしまう。サブカルチャー大国である現代日本においてはライトなオタクが多数観測され、彼らはギークにもナードにも分類する事ができない。やはり日本と文化の違うアメリカのオタク分類学をそのまま適用する事は難しいようだ。

 

次に筆者にとっての「ヲタク」の定義だが、現代日本にはサブカルチャーが溢れかえっており石を投げればオタクに当たり犬も歩けばオタクに当たるまさに世は大オタク時代、この世の全てを趣味(そこ)に置いてきてしまうようなオタクこそ「ヲタク」だと筆者は認識しているわけだが「ヲタク」という言葉の起源からするとこの定義はあながち間違っていないのかもしれない。しかしこの定義だけでは判断できないケースも存在する。

2014年にアニメ化された『ラブライブ!』は一大ブームを巻き起こし爆売れした。2015年には紅白歌合戦に出場、翌年には東京ドーム公演を成功させる等、飛ぶ鳥を落としすぎてその数年間で日本の鳥が絶滅したと言われるほどとにかく爆売れした。

このブームで何が起こったかと言うと、岸和田のだんじりに命を懸けアニメは小学校の時再放送で『クローズ』を見たのが最後、というような少年までもがラブライバーと化してしまったのだ。愛車のDioすらラブライブ仕様にデコレーションし推しメンを背負った特攻服を身に纏い東京ドームへ参戦する、そのようなオタクが一定層、確かに生まれた。

この場合彼らは「オタク」なのだろうか。「ヲタク」なのだろうか。

"この世の全てをそこに置いてきた"のは間違いないわけだが前述の2016年の東京ドーム公演で『ラブライブプロジェクト!』は終わりを向かえラブライブブームはあっけなく終わった。彼らは今や自分たちがラブライバーだったことすら忘れているに違いない。今頃はサブカルチャーに触れる事無く工事現場で足場を作る日々を過ごしているだろう。

この現象と同様に昨今の『鬼滅の刃』ブームに乗じて息子の名前を炭治郎にしてしまうバケモノがこれから現れてくるかもしれない。その場合「ヲタク」と呼べるのか。

彼らを「ヲタク」と呼んでしまってもかまわないのかもしれないがあまり気が進まないのはなぜだろうか。原因を考えた結果、筆者の中で「ヲタク」とは永久的な物であるという認識をしているからだという結論に辿り着いた。

サブカルチャーは一部を除いて半ば消耗品のような物で、流行ったと思えば廃れていきまた新たな流行が生まれてを繰り返す物である。その性質上一過的に好きになるのはある種宿命と言ってもいいのかもしれない。

永遠なんて物は存在しない。分かっているのに執着してしまうのはなぜだろうか。休日の賑わう繁華街の通りに大量にいる爪楊枝で一突きすれば破裂する風船のようなカップル達を疎ましく思ってしまうのは嫉妬もあるが彼らの関係が永遠に続かない事が明白であるからかもしれない。それほど筆者は永遠というものに執着しているらしい。これはおそらく筆者の中のナードの部分の精神性がもたらしているものであろう。

筆者は現在甲斐心愛ちゃんの「ヲタク」をしている(つもり)のだがやはり彼女もいつまでもずっとアイドルでいるわけでも、こちらから姿の見える場所にいてくれるわけでもない。いつかは今生の別れとなってしまう時が来る事は揺るぎなく、変えようのない事実である。

その時筆者は「ヲタク」では無くなってしまうのだろうか。

例え甲斐心愛ちゃんが一般人に戻ったとしても彼女の存在を忘れさえしなければ「ヲタク」でい続ける事ができるのだろうか。死ぬまで彼女を想い続けて一生を終え、その時やっと自分は甲斐心愛ちゃんの「ヲタク」であると胸を張って言う事ができるということなのか。

そう考えると永遠に基づいた筆者の「ヲタク」の定義は不完全な物である。と言ってもあくまでもそれは「甲斐心愛ちゃんのヲタク」についての場合でありその後新たな推しメンを見つければ「アイドルヲタク」としての恒常性は補完する事ができるがそれは筆者の望む形ではない。

 

このように「オタク」と「ヲタク」の線引きを自分なりにしてみたが結局の所どうやってもどこかに綻びが生じてしまい完璧に定義することはできない。

また今回はアイドルオタクの筆者だからこのような考え方をしたが他のジャンルのオタクの場合はまた違った考え方をするのかもしれない。

そもそも「オタク」と「ヲタク」の違いについて真剣に考えているのは筆者しか存在しないのかもしれない。

結局のところこれらを明確に線引きできなかったところで困る事は何一つ無い。ご飯はおいしいしちゃんと味もするのである。もしかしたら実際のところはマクドナルドを「マック」と呼ぶか「マクド」と呼ぶか、ハイドロポンプを「ドロポン」と呼ぶか「ハイポン」と呼ぶか、パリ・サンジェルマンの背番号7を「ムバッペ」と呼ぶか「エムバペ」と呼ぶか、それくらいの些細な違いなのかもしれない。真実は誰にも分からない。

だが、だからこそ中森明夫の最終定理はオタク分類学会においての永遠のテーマであり、全ての学会員はこれを解くため日夜頭を悩ませているのだ。

いつの日かこの謎を解き明かすのは今この文章を読んでいるあなたなのかもしれない。

 

オタク分類学会はいつでもあなたを待っている。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。こんな怪文書と違ってオタク文化論についてのめちゃくちゃちゃんとした論文があるのでこちらも是非ご覧下さい。

https://www.econfn.com/ssk/otaku/otakubunkaron.pdf